精神分析におけるセックスとジェンダーを学ぶ会2022年第10回

2022年2月18日に「精神分析におけるセックスとジェンダーを学ぶ会2022」第10回を行いました。今回はBenjamin,J.の“Beyond Doer and Done to: An Intersubjective View of Thirdness.”の第二章を扱いました。Benjamin,J. 2004 Beyond Doer and Done to: An Intersubjective View of Thirdness. Psychoanalytic Quarterly. 73:5-46 2 Our appointment in Thebes : acknowledgment, the failed witness and fear of harming 3 Transformations in thirdness: mutual recognition, vulnerability and asymmetry.

実は、本書はジェンダーにとどまらない、あらゆる差別や歴史的トラウマにも広がりのあるものです。しかし、この勉強会を企画した時に最初に浮かんだのがこの文献でした。というのも、ジェンダーの問題を考え、議論する際に、とても重要なことが書かれている予感がしたからです。

ジェンダーの話をすると、微妙な空気が流れることが多いです。ある人はマウントを取ろうとします。ある人は誰かに媚び従うような態度を取ります。ある人は突然攻撃的になります。ある人は無関係を装おうとします。これはジェンダーの問題が非常にデリケートなものであることを意味しています。すべての人にとって、個別的でとても重要なものであるにもかかわらず、「男/女」「異性愛者/同性愛者」のようにカテゴライズされ、しかもそこにマジョリティ―マイノリティという権力関係が生じてしまいます。それゆえにマジョリティであってもマイノリティであっても、心乱されてしまう話題なのでしょう。学術的な議論の場であっても、このようなことは容易に起こりえます。

違う立場の人同士がジェンダーの問題を建設的に語り合うにはどうすればいいのでしょう。これはこの勉強会を立ち上げたときに強く意識していたことでした。ジェシカ・ベンジャミンの“Beyond Doer and Done to: An Intersubjective View of Thirdness.”はこの問題に、ある有効な視点を提供してくれるものでした。

とても難しい文献なのできちんと解説することは難しいのですが、今回、最も重要だと感じたことは、「する側(doer)」も「される側(done to)」も、ともに責任を負うということです。ここでいう「責任」とは、自分の心が何らかの痛みや負担を感じることを引き受けることだと思いました。立場の違う者同士がともに同じ世界を生きることはとても苦しいことです。「される側(done)」はともすれば被害者になりやすく、物理的にも精神的にも痛みを負うのは言うまでもありません。「する側(doer)」であっても、罪悪感や害をもたらしてしまうのではないかという恐れから逃れることは難しいでしょう。場合によっては激しく糾弾されることもあり得ます。ジェンダーに関して言うならば、多くの男性は女性に対して差別などしていないのに、リアルでもネットでも加害者扱いされていると感じることがあります。

ジェンダーの問題について建設的に語り合うためには、「する側(doer)」も「される側(done)」も互いに何らかの形で自分の心が傷つくことを覚悟しなければならないのかもしれません。