クリスマスを楽しめない人々

 

クリスマスが近づいてきました。街にはイルミネーションがきらめき、クリスマスソングがいたるところで聞こえてきます。まるで万人にとってクリスマスが良いもののようです。しかし、本当にクリスマスは楽しいものでしょうか。

 

良い子にしていたらサンタクロースが贈り物をくれるなんて、いったい誰が考えついたのでしょう。もし、サンタクロースなどというものが存在するならば、良い子にも悪い子にも、もれなく贈り物をくださるべきです。

 

クリスマスを楽しめない人々がいます。幼少期に良い思い出がない人。家族や恋人がいない人。クリスマスにトラウマティックな思い出がある人。

 

クリスマスに限らず、お正月、成人式、バレンタインと、冬はマジョリティだけが楽しめるイベントが多いです。マイノリティの人々はこれらのイベントを楽しめないばかりか、どこか肩身の狭い思いをしているのではないでしょうか。クリスマスを楽しめない人々の共通点として「孤独」が挙げられるように思います。クリスマスは家族や恋人と過ごすもの、という世間的概念に苦しめられている人々です。

 

しかし、ちょっと考えてみてください。本来、クリスマスはキリスト教の祭典なのです。現代の楽しいイメージは、社会や企業が作った空虚な概念にすぎないとも言えます。バレンタインもしかりです。

 

キリスト教を含む世界の人々に長年求められている宗教には、信仰を持っていない人にも学びの深いエピソードがたくさんあります。ここで、あるキリスト教信者の有名な詩を引用したいと思います。孤独を感じている方に、ぜひご紹介したいのです。

 

ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。
一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、私は砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。
このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。
それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。
一番あなたを必要としたときに、あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」
主はささやかれた。
「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。
あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」
「あしあと」マーガレット.F.パワーズ

 

私は臨床心理士・公認心理師ですから、信仰の問題には踏み込みません。ここで「主」と記されているものを「神」とは考えないことにします。そこで、「主」を「信頼している誰か」に置き換えてみてはどうでしょうか。

 

孤独を感じる時、人は自分が信じている人、愛している人から見捨てられた、一人ぼっちにさせられたと感じます。しかし、本当にそう言い切れるのでしょうか。
本当にひとりぼっちなのでしょうか。そう思っているだけで、本当は誰かの背に負われてはいませんか?

 

誰からも見捨てられ、一人ぼっちである、その可能性ももちろんあるでしょう。
しかし、認識論的に言えば、自分の認識の外で誰かが自分を想っていることを、人は知ることができません。

 

初期には酷い親として父親や母親のことを語っていたクライエントが、数年間のカウンセリングや心理療法ののちに、良い思い出もあったことが思い出されたり、完璧な子育てではなかったけれど親なりに一生懸命背負っていたのだなと語るようになることがあります。
(もちろんその過程には、つらいことを「つらかった」ときちんと言えたり、自分が傷つけられてきたことを存分に語り、認められる時期を経るものですが。)

 

私の知らないところで、誰かが私のことを想っていて、それゆえにその人自身が苦しんだり、私の苦しみを軽くしようとしたりしているかもしれない。
そんな可能性について思いを馳せてみることを、この詩は教えてくれるように思います。

 

※季節を感じる空間にしたいので、当オフィスにもクリスマスグッズを飾りました。でも、「Happy Christmas」「Merry Christmas」などの文字が書かれているものは避けることにいたしました。

2022年12月16日