精神分析におけるセックスとジェンダーを学ぶ会2022年第8回

2022年12月17日に「精神分析におけるセックスとジェンダーを学ぶ会2022」第8回を行いました。今回はナンシー・マックウィリアムズのレズビアン・ゲイ・バイセクシュアルの人々へのセラピー論文を取り上げました。McWilliams,N. (1996) Therapy across the Sexual Orientation Boundary: Reflections of a Heterosexual Female Analyst on Working with Lesbian Gay, and Bisexual Patients. Gender and Psychoanalysis. 1(2):203-221

この論文全体を貫いているテーマは「普遍性と特異性」だと言えます。人間のありようやセラピーの本質は、性的指向にかかわらず普遍的なものがあります。一方で、矛盾するようですが、レズビアン・ゲイ・バイセクシュアルの人々特有の苦しみやそこに配慮したセラピーのありかたも存在します。本論文で、ナンシーはそのことを繰り返し述べていました。

性的指向に関わらず、人間の性愛には普遍的な側面があります。性愛的な関係が、非性愛的な関係に比べて特別な意味を持つのは、誰かの欲望の対象になったとき、私たちは自分の個性に特有の何かが見いだされ、評価されたと感じることができるからです。それは性的指向にかかわらず、普遍的に存在する基本的な欲求です。そういう意味では「異性愛も同性愛も一緒」と言うことはできるでしょう。

方で、ナンシーはその危険性にも触れています。レズビアン・ゲイ・バイセクシュアルの人々がその人生を通じて体験してきた、レズビアン・ゲイ・バイセクシュアルゆえの苦しみがあります。「異性愛者と一緒」と言ってしまうことは、その苦しみを矮小化することにつながる可能性があります。

本論文では、レズビアンやバイセクシュアルの女性とヘテロセクシュアルの女性セラピストとの間で起こる、激しくエロティックな転移について触れることで、そのことを説明しています。簡単に言えば、ヘテロの女性セラピストにとって、レズビアンやバイセクシュアルのクライエントが同性女性に見えてしまいがちで、だからこそ問題が生じやすくなるということです。ヘテロの女性セラピストは、レズビアンやバイセクシュアルのクライエントに対して、無自覚に誘惑的にふるまってしまうことがあります。例えば、足を高く組んでスカートの奥が見える、「どうして私がヘテロだと思うのか不思議だ」と伝える(まるで自分がレズビアンやバイセクシュアルであるかのように感じさせる)など。同性(と感じてしまう)ゆえの油断が生じるということです。

誘惑されたクライエントは激しくエロティックな転移の中に巻き込まれます。異性愛者の男女治療カップルであれば、ここでセラピスト側も性愛的な逆転移を感じることが容易にできます。しかし、レズビアンやバイセクシュアル女性とヘテロセクシュアルの女性セラピストという治療カップルでは、セラピストが性愛的な逆転移を感じることが難しい場合があります。そうすると、クライエントは興奮させられるだけさせられて、放っておかれることになります。それはとても残酷なことです。

元をたどれば、レズビアン・ゲイ・バイセクシュアルの人々は3~6歳ごろのエディプス期以降、性愛の対象である同性の親との関係において、同じことを体験しています。本人にとっては性的な魅力を持つ親ですが、親にとっては同性の子どもであり、同性としての距離感で接します。お風呂で性器の洗い方を教える、温泉等で裸になる、女の子であれば初潮時にナプキンの使い方を教える等。レズビアン・ゲイ・バイセクシュアルの子ども(当時はその認識はなかったとしても)にとっては、誘惑的であったり、侵襲的であったりするわけです。ヘテロの人は、異性の親と同様のことをすると想像してみてください。それがどんなに暴力的な体験であるかわかるでしょう。そのような体験を、レズビアン・ゲイ・バイセクシュアルの人々は何十年も積み重ねてきているのです。安易に「異性愛者と一緒」とは言えないでしょう。

一方で特異性だけを強調することのリスクも議論されました。これはレズビアン・ゲイ・バイセクシュアルに限らず、アダルトチルドレン、発達障害、HSPなどのラベリングすべてに言えることなのですが、「私はLGBTQ(AC、発達障害、HSP)だからこうだ」と認識することは、とりあえず自分の存在が規定される安心感を得ることができますが、自分を唯一無二の個性を持った存在として感じることが難しくなります。医学的診断名や社会的カテゴライズは、自分という人間を見る時のひとつの切り口にすぎません。人間はそんなに単純な存在ではなく、複雑なパーソナリティや能力、個別の歴史を持った存在です。それはヘテロセクシュアルであろうが、レズビアン・ゲイ・バイセクシュアルであろうが、変わりません。

今回はちょっと長くなってしまいました。実は、私はナンシー・マックウィリアムズの著作がとても好きで、読みすぎて本がボロボロになっています。どの章に何が書いてあるかも、ほとんど覚えてしまいました。数年前にナンシーが日本に講演にいらっしゃった際にはもちろん聴きに行きました。日本人である私たちへの気遣いなのか、とても易しい英語で話してくださったので、講演の終盤には通訳なしでもお話が理解できました。しかし、質疑応答の際には芯が通っていて、率直にものをいう人だとも感じました。

そういうわけで、私はナンシーのことが好きで、今回はちょっと長くなってしまったわけです。