精神分析におけるセックスとジェンダーを学ぶ会2022年第2回

2022年5月21日、「精神分析におけるセックスとジェンダーを学ぶ会2022」第2回を行いました。今回はクラインの女性性コンプレックスについての論文です。Klein,M. (1928) Early Stage of the Oedipus Conflict. International Journal of Psycho-Analysis. 9: 167-180 東園昌久、牛島定信責任編訳 1983 『子どもの心的発達 メラニー・クライン著作集1』誠信書房

ディスカッションの前半は、フロイトのエディプス・コンプレックスとクラインの早期エディプスの「エディプス」という用語は、はたして同じ意味なのだろうか、ということでした。その疑問を発端として、アンナ・フロイトとメラニー・クラインの論争さながら、自我心理学派とクライン派の激しい議論となりました。私はそれを見ていて、まるで異種格闘技のようだと感じました。

自我心理学派のエディプスは、よく知られているとおり、母親に思慕を抱いている男児が父親に憎しみを抱くことから着想された概念で、母子の二者関係から、母親が自分以外の他者と特別に親密な関係を築いていることの気づきと葛藤を経て、三者関係に開かれていく心の成長を意味しています。

一方、クライン派の早期エディプスでは、母親の胎内に糞便やペニスや赤ちゃんなどがあると想定されます。赤ちゃんの空想の話なので、部分対象的で、感覚優位で、非論理的な世界観なのですね。そして、赤ちゃんは胎内の対象同士に関係性を見出して、愛情や憎しみや羨望を抱き、攻撃性を向け、罪悪感を感じます。

なんだかわけの分からない話ですが、この世の終わりのように泣いている赤ちゃん、おっぱいを吸いながらおしっこをする赤ちゃん、生えかけの歯でおっぱいを噛む赤ちゃんのことを想像力をいっぱいに働かせて考えると、なるほどそういうことを感じているのかもしれません。大人になってからも、精神の調子の悪いときにはそのような世界観に陥ってしまうことも、あるかもしれません。

どちらの主張もよく分かるのです。しかし、同一線上で「エディプス」という用語を同じ意味で理解しようとすると分からなくなります。そう考えると、自我心理学派もクライン派も精神分析ではあるのですが、かなり違う次元でものを見ているように思います。激しい論戦でしたが、スポーツマンシップに則った爽やかな議論となりました。

後半は女性性コンプレックスについての議論となりました。女性性コンプレックスとは、女性が男性にペニス羨望を抱くのと同様に、男性もまた女性の赤ちゃんを産み出す力に羨望を感じ、破壊衝動を抱くというものです。その源泉は、早期エディプスにあります。

そこでは、母親に世話をしてもらうためには劣った存在でいなければならないという卑屈な感覚があります。サディズム傾向の強い人は、その葛藤の防衛として、男性的感覚を過大視し、自己愛的で女性に対して知的競争の態度をとるようになると、クラインは述べています。この点は本論文いちばんの主張ではなく、添え物のように書かれていますが、とても重要でユニークな視点だと思いました。